2024年2月の月報です。毎月最初の記事はこんな風に月報を配信しようと思っています。
ただ単にリンクを送るだけでは味気ないので、記事末尾にこの記事のタイトルになっていることを書きました。
普段お見せしないような文章をこの機会にお見せできればなと思います。
2月に書いた記事
2月に読んだ気になる記事から5つをピックアップ
魔が差す瞬間から距離をとる:『ペテロの葬列』と日常の選択
宮部みゆきの『ペテロの葬列』を読みました。杉村三郎シリーズの第三作です。
読んでない方は第一作の『誰か somebody』から読むのをおすすめします。新刊というわけではないので、図書館でも比較的簡単に借りれると思います。(電子書籍化してくれると、個人的にはとてもうれしい)
さて、その中でこんな文章があります。
詐欺を働くような人が「何を考えているのか」について言及した部分です。
「真ん中がないんだよ。空っぽか、みっしりか。そうでないと、あんなふうに人を騙すなんてできないような気がする」 言い換えるならそれは、〈自分がない〉か、〈自分しかない〉ということではないか。
「自分がない」とは、たとえば自分なんてどうだっていいと思っているような状態、逆に「自分しかない」とは自分以外はどうだっていいというような状態と理解しています。
そして、これは実際には誰にでも起き得る状態だよなと思うわけです。
「魔が差す」と言いますが、そんなときは一瞬でも〈自分がない〉か、〈自分しかない〉になっているのだと思います。
たとえば、道端に落ちている財布を拾ったとき、ほとんどの人は交番に届けると思います。
でも魔が差すというのは、たとえば仕事やプライベートで破壊的ななにかが起こった直後だった、あるいは生きていくためにお金が必要な状態だった、そんなときに交番に届ける以外の選択肢が浮かぶ、魔が差す瞬間がやってくるのだと思います。
ただ、その瞬間はほんの一瞬だと思うのです。
環境によってそうした状態にされてしまうこともあるでしょう。
そんなときでも魔が差す瞬間から距離を置くための何かが必要なのではないかと思うわけです。
それは警察や裁判などの社会的なシステムかもしれませんし、自分の中に育まれた良心、あるいは貯蓄、様々なものがあるのでしょう。
そうした、距離を置くために必要な何かとともに、「自分がなくなっていないか」、あるいは「自分のことしか考えていないのではないか」、そんな視点も持っておく必要があるのかもなと思いました。
その瞬間はもしかしたら重要な分かれ道なのかもしれないのですから。
「意外とね、そんなもんなんです」警部は言った。「事件を起こす前に、何かそういうブレーキがかかる。そこで止まれるか止まれないかが、人の運命を分けてしまう。いや、そこが自分の運命を分ける瞬間であることに、気づけるか気づけないかの問題かな」