何かを本当に理解したいなら、きっと自分の口に突っ込まなければならない
独学ラジオで倉下さんとお話しました。(関連記事:第2回(前半)「付箋で位置という概念が生まれる」(倉下さんと読書について) )
その中で本に付箋を使うことで、位置という概念が生まれてくるという話がありました。
本にドックイヤーをつけるよりも、付箋の方がアクセスしやすく、付箋とそこに書いてある内容が紐づくというものです。
その話を聞いて真っ先に考えたのは、アウトライナーで本の構造を操作することで、本の構造を体感できるというお話です。(関連記事:アウトライナーに目次を入れ、「この本は何か?」に自分なりの答えを出す )
この間にはつながりがありそうです。そこで考えたのは、人は位置情報で把握する。フィードバックがなければ体感できないという二点です。
たとえば『ライフハック大全』では、「記憶の宮殿」というライフハックがでてきます。頭の中に自分だけの宮殿を作り、その位置と知識を紐づけて記憶するのです。
また個人的な話になりますが、学生の頃定期テスト前に暗記する一つの方法として、ノートのどのあたりの場所に何が書いてあったかを暗記していました。
ただ、たまに位置だけ覚えていて内容を忘れた結果、「この場所に書いてあったはずなのに内容が、内容が分からない」とテスト中に悶えることになります。
さらに引用するとドーパミンについての本、『もっと!』の中ではドーパミンが放出するのか、それともそれ以外の神経伝達物質が放出されるかどうかは、考える対象が自分の近くか、あるいは離れたところにあるかで変わってきます。(本の中では身体外空間と身体近傍空間と表現されていました)
人間にとって位置という情報を自分の中に紐づけることが生きていく中で重要なピースであったことが伺えます。
ではアウトライナーで本の構造を体感するということを、「位置」という視点で考えるとどうなるでしょうか?
アウトライナーはアウトラインを組み替え、動かし、操作できます。
アウトラインを「操作する」ということは自分にとって「近く」にあるということです。
ではすべての操作は「近い」のでしょうか?
たとえば、ボタンを押すという操作をしても何も起こらないとき、それは「近い」のでしょうか?「遠い」のでしょうか?
わたしは「遠い」と考えます。結果がフィードバックされないければ、その操作は「近く」ないのです。
逆にそのボタンを押すと、どこかで爆弾が爆発する、その映像が目の前に移されるとなれば、それは「近い」のです。
操作するだけでなく、フィードバックがあることで、「これが何か?」が分かってくるのかもしれません。
つまり人が何かを理解するには自分の「近く」で「操作」し、「フィードバック」を受けて「位置」を自分の頭に紐づける必要があるのではないでしょうか?
なかなかおもしろい仮説です(自画自賛の動き)。
だから赤ん坊はなんでも口の中にいれてしまうのでしょう。なんといっても一番「近く」で操作できるのは自分の体の中なのですから。
口に含んで、噛んで、舐めて、飲み込んで、だから腹に落ちるのです。
お後がよろしいようで。