学び続けるためには習慣化すると良いという話はよく聞きます。
やはり習慣化されていない行動は「めんどくさい」です。
というわけで、めんどくささについて考えます。
同じような手間でもめんどくささが全くちがって感じることがあります。たとえば、以下のような場合です。
皿洗いをしているときに、もうひとつコップを洗ってほしいと頼まれる
ソファーで本を読んでいるときにコップをひとつ洗ってほしいと頼まれる
想像しただけで心理的なハードルがちがいます。
そこにはどんな差があるでしょうか?
たとえば距離です。
「ソファーに座っている」のと「台所に立っている」場合では、台所の方が近いわけですから、台所で皿洗いを頼まれた方が移動距離は短くなります。
距離がひとつの要素ではあるでしょう。1
しかし、たとえば皿洗いをしているときにソファーまでコップを取りに行ったとしてもそこまでめんどくさくはありません。
「まぁ少し手間だな」ぐらいの感覚です。ソファーで本を読んでいるときほどの抵抗感はありません。
しかし現実的な距離で言えば、台所とソファーの往復ですから長くなっています。
つまりここでは現実的な距離だけではなく、心理的な距離が問題になっているのではないかと考えられます。
次に心理的な距離について少し考えてみます。
距離とはある点とある点の間の長さです。最低でも点がふたつ必要です。
「コップを取りに行く」という心理的な点Aに対して、もう一方の点Bが必要です。
では、もう片方の点Bは何か?
それは私たちの脳が構築している予測なのではないでしょうか。
私たちの脳は常に何かを予測しています。
こうして文章を読んでいるときも、次にどんな文章が来るかをぼんやり予測しているはずです。
その予想からずれると、人は驚いたり、不思議がったりするわけですが、これは行動においても一緒です。
「ちくわ大明神」
いま何か変な言葉が書かれていましたが、それを読んだときに苦笑いを浮かべたり、違和感を持ったり、あるいはちょっとしたおもしろさを感じたりといった何かしらの感情が刺激されたのではないでしょうか。
それも予測とのずれが原因でしょう。
予測からのずれはひとの感情を刺激します。冒頭の例では予測からのずれが「めんどくさい」という感情を引き起こしたといえるでしょう。2
ソファーで本を読んでいるときに、コップを洗う予測を脳がしているとはちょっと思えません。
ここで学び続けていくことについて考えてみます。
学び続けていくために習慣化すること、これも今回の話に引き付けて考えると、習慣とは脳の予測しやすい行動といえるでしょう。
さらに広げれば、学び続けていけば「学び直し」や「アンラーニング」という視点も必要です。
そのためには自分の予測を疑う、自分の予測範囲の外へ出ることを必要としますのでかなり「めんどくさく」感じるはずです。抵抗感があります。
脳からすれば「ソファーで本を読み続ける」という予測から外に出たくはないのです。
このめんどくささにどう対処するのかが、学び続けていくうえでカギになるでしょう。
一つの方法としては脳が作る予測の中に「自分の予測は間違っていることがある」と織り込めるようになることです。
たとえば日記などを読み返してみると、自分の考えていることに対する違和感などを感じることがあります。
それは未来の自分が現在の自分に向ける目線ともいえます。そうした目線を織り込みながら学んでいくことが学び続けるの方法だと思うのです。
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