なぜ独学同好会をやっているのか。
独学に限らず、学びは変化に繋がっている。どこか閉塞感を感じることも多い社会で、学びという変化が何かのきっかけになればという思いがまずひとつある。
それはなぜ本を書いているかにも通じており、「子供にどんな世界を残せるのか」という問いの中で非力な私ができることでもある。
だからこそ自分にしか書けない本を書きたいと思っているし、『世界は「日記」でできている』は、そんな本になったと思う。
そもそもの出発点として実はこの独学同好会は日記同好会だった。日記というものは自分を知るために最適なツールのひとつだ。
日記帳に書かれるものは誰に見せるものではない。自分だけのものだ。1
日記は自分でも分からない自分の中のなにかに気づくきっかけになりうると思っている。
しかし、日記だけでは足りないという意識はずっとどこかにあった。その足りない部分を埋めるものが独学であると感じた。(当時の記事:なぜ日記同好会をやっているのかを考えたら独学同好会にたどり着いた)
この記事から1年以上たって、あの頃よりも日記と独学には私の中で通じるものがあると考えるようになっている。
独学だと狭いのでひとまず「学び」としてもいいかもしれない。
日記と学びに間に通じるもの、それは受け取ることと託すことだと考えている。日記は今日自分が受け取ったものを未来の自分に託すことである。
学びは他者が育んできたものを受け取ることだ。それと同時に受け取ったものは未来の自分、あるいは未来の誰かに託すものともなる。
しかし、託すというのはなかなかに難しい行為だ。
託そうと思うためには、受け取られるだろうという信頼が必要である。
たとえば最近3年連用日記を買った。同じ日付が3年分並んでいるので日記を読み返しやすい。同じ日が来るのは一年後と長いが、私は日記を書く習性があるので、来年も日記を書いているだろうという自分への信頼がある。
そう、未来の自分が受け取るだろうという信頼である。
それは日記を書く原動力のひとつとなる。2
しかし、受け取るだろうという信頼は最初からあるはずがない。
ではどうすればいいのか?
受け取ってくれるだろうという希望があれば始めることができるのではないだろうか。
学ぶことも同じだ。
学ぶとき、わたしたちは受け取っている。過去の巨人たちの積み重ね、あるいは市井の誰かのニッチな掘り下げを。
だれかが託したいという希望を持つために、受け取っていることを見せる価値がある。
日記を書くことは「未来の自分に託せるだろう」という信頼を育てる。
学ぶことは託そうとする自分に、ほかの誰かに「受け取ってくれるだろう」という希望を見せる。
受け取ることも託すことも、どちらか片方だけでは成り立たない。
わたしが日記と学びについて考える理由の一つは受け取ることと託すことにひかれているのだと思う。
今年は受け取ることと託すことにもう一度注目する年になるのではないかと思う。
この二つを結ぶキーワードとして「棚上げ」が自分の中に育ってきているが、それはまた今度書きたいと思う。
多分今年の自分のキーワードは「棚上げ」である。
もちろん日記帳という自分の外側に残すことによって、自分以外の誰かに読まれるかもしれないという意識は働く。
他にも行為の楽しさや、得られるメリットなど様々な原動力がある。