学ばないで学ぶ、最近少しそんなことを考えています。
きっかけは『ライティングの哲学』です。
「書けない悩みのための執筆論」というサブタイトルがあるように、どうやったらまとまった文章を執筆できるかという本です。
その中で「書かないで書く」という言葉が出てきます。
簡単に言えば、「執筆しないで書く」ことです。
「執筆」に対する理想やスタイル(アイディアが降ってくる、初めから最後まで順番に書いていくなど)にこだわらず、「書く」のです。
ちょっとしたメモをつなげたり、誰かと話したときの議事録を活用するなど様々な方法が紹介されています。
ただ、これはあくまでほんの一例で『ライティングの哲学』において「書かないで書く」もっと深くて広いです。
ここではその広大さはひとまず置いておき、では「学ばないで学ぶ」とはどういうことか?
そんなことを考えてみたいと思います。
「書かないで書く」を「執筆しないで書く」のように言い換えるとするなら、「学ばないで学ぶ」は「勉強しないで学ぶ」ということになるでしょう。
学ぶことは勉強することであると考えてしまうと、机に向かう、セミナーに出る、授業を受ける、難しい本を読む、といったことを想像します。
しかし、学ぶとはそれだけでしょうか?
学ぶとは自分が変わること、自分を構成する知識や常識のネットワーク、その一部分が変わることではないかと考えています。
授業に出るなどは、あくまでそのための手段です。
机に向かうと集中しにくいなら立って本を読んだっていいのです。
授業がないなら、その分野の先達に話を聴きに行ったりするのもいいでしょう。
アニメや映画で興味をひかれたものについて調べるのも学びとなるでしょう。
勉強はあくまで手段であり、学び方はもっと広いものです。
つまり「学ばないで学ぶ」は「手段を選ばないで学ぶ」ともいえます(字面だけを見ると危ない雰囲気ですね)。
できるだけ、自分に合った方法で学ぶことです。
時間帯、方法、環境などなど様々な組み合わせがあるでしょう。その方があまり苦しまずに学ぶことができるはずです。
もちろん苦しい段階は必ずあります。
『ライティングの哲学』では、「執筆」という苦しみが多い部分を短く、あるいは原稿完成工程の後の方に回すように工夫されていました。
後ろの方に回すことで、原稿の材料や文字数を増やし、手札を増やしていけます。
しかし、学びには原稿のように完成がありません。
どの段階で苦しい段階を持ってくるのかは自分次第です。そう考えると学校などで行われるテストは有効な区切りとして機能していたのかもしれません。
テストなのにわからないところを放っておけば、点数は取れません。
独学の場合は自分でブログなどを書く、あるいは一日一ツイート勉強した内容について書くなど自分に合った区切りを作ることが特に重要でしょう。
先日の季報記事でも書いたように、「学び会(仮)」のようなイベントを独学同好会でも考えていますので、そうしたイベントを活用するのも有効です(メールアドレスを登録していただければご参加できます #PR )。
自分なりの区切りをうまく作りながら、独学していきましょう。
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