記録が刺激になっていく「実況メモ式感想法(仮)」
SNSの代わりに、自分のタイムラインを作っていた
自分から出てくる感想の満足度をあげたいなーという思いからかどうかは分かりませんが、いつの間にか始めていた「実況メモ式感想法(仮)」を以下のnoteで紹介しました。
自分の中から出てくる感想に満足できないので「実況メモ式感想法(仮)」を始めてみた|ゆうびんや
スポーツ実況のように起きていることをメインにしつつも、解説や感想、考察を書き加えていく。すでに起きていることを取捨選択している時点で感想である。
そんなコンセプトです。
感想だけでなく、内容などの事実を記録したようにしたのかを考えてみると、その方が「楽」で、「刺激」があるからという仮説が浮かびます。
「楽」
まず内容も細かく書くようになったのは、単純にその方が負荷が小さいことに気づいたというところもあります。
計算は暗算でしないのに、本を読むときは一種の暗算のように読み進めようとしていました。今考えると道理に合わない気がしますね。
ただ疲れているときは逆に細かいめんどくさいことはやりたくないのも事実です。
だから、ここでは筆算した方が暗算より楽と小学校で既に実感していたように、細かく実況した方が、実は楽だと実感できたことが大きかったと思います。
また、日記の書き方のひとつに行動日記があります。
今日一日何をしたかという事実を書くだけです。私たちは生きている限り何かしらの行動をしているので、内容に対するハードルを設置しなければ、行動日記は書くことには困らないというメリットがあります。
実況メモ式感想法は、その意味でも、感想を書くのが楽になります。
「刺激」
次に刺激です。
SNSは暇な時間に良かれあしかれ刺激を与えてくれるわけですが、そのSNSの時間を減らすことで、一種「退屈」になる時間が増えるわけです。
その退屈を記録を書くことによる刺激で埋めたのではないかという仮説です。
つまり、記録にはSNSを補完するような刺激があるということです。実況メモ式感想法は、その刺激を得るニーズに合っていたのかもしれません。
実際、Twitter(現X)を辞めてから記録を細かくとるようになりました。
記録を細かくして、解像度を上げ、量を増やすと起きてくるのが、記録の「タイムライン化」です。
ここではTwitterのタイムラインのように、細かい情報がずらっと並んでいる画面をイメージしてもらえればと思います。
そもそもXだって、もしかしたら自分が選んでフォローした人のタイムラインだったら、ある程度の範囲で刺激は抑えられていたのではないでしょうか?
アルゴリズムのおすすめ欄をデフォルトにしてくるのも、刺激を増やして中毒性を上げるためと考えられます。
見知った人たちによるある程度背景が分かるタイムラインでも一定の刺激があるとひとまず仮定します。
では、一番見知った人のタイムラインとは何だろうかと考えると、自分自身が書いた記録です。記録を細かくとることは、自分自身の記録の刺激度を上げるのではないでしょうか。
Twitter以外のところに自分自身のタイムラインを作り出すことができるのです。
そのタイムラインに刺激はあるのかと問われれば、私はあると答えられると思います。1
まず、人間は忘れやすいので、昨日のこと、なんなら午後には午前中のことは忘れています。すでに自分の記録であっても、過去の自分という「他者」のタイムラインでもあるのです。
このタイムラインが、他者性を帯びるには一定量の記録が必要だと考えられます。
一言だけの記録も大切なものですが、それはタイム「ライン」とは言いにくい感覚があります。Xでもひとつ投稿があるだけではタイムラインにはならないですし、刺激もないですね。
この記録の量を増やすための手法が「実況メモ式感想法」だったのだと思います。
つまり、SNSをやめてから自分自身の記録頻度や量を増えたのは、記録することをSNSの刺激の代わりにしたからであり、そのための手法が「実況メモ式感想法」だったと考えられるのです。
また、文章を書くことで、自分自身にも思いがけない言葉やアイディアといった刺激も得られます。記録する頻度や量を上げることはその刺激を得られやすくします。
ただ、ここではSNSの刺激を逃れて生まれた退屈に対して、自分にとっていい塩梅の刺激で埋めているわけですが、どこか違和感もあります。
この点についてはもう一度『暇と退屈の倫理学』を読んで考えてみたいとも思っています。
ちなみに、この記事に興味が持てた人には確実におすすめの一冊です。考えたことについてはまたどこかの機会にご紹介できたらと思っています。
まずは「実況メモ式感想法」、良かったら試してみてください。
ではでは。
『暇と退屈の倫理学』の中では今日と昨日の区別をしてくれるものを「事件」とする考え方が紹介されており、細かく記録することは今日と昨日、あるいはさっきと今を区別する「事件」を増やしてくれるのだと思います。
> 「退屈とは何か? ラッセルの答えはこうだ。退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものである。 どういうことだろうか? ラッセルの言わんとするところを理解するためには、ここで「事件」が何を意味しているのかを明確にしなければならない。 ここに言われる「事件」とは、今日を昨日から区別してくれるもののことである。」『暇と退屈の倫理学(新潮文庫)』國分功一郎著 https://a.co/64eUvCO

