考えるというのは分かっていそうで分かっていない行為の一つだと思う。
どうすれば「考えている」といえるのか。
とりあえずひとつ「考えている」と言えそうなのは、何かを切り分けようとすることではないかと思う。
切断することは、考える手段でもあり結果でもある。
少し切り分けることについて考えてみる。
たとえば「シ」と「ツ」は違うと認識できるようというのは、小さいころから繰り返し学び、考えてきたからだ。(多分日本語を学んでいない人には同じに見えると思う)
また『すべてはノートからはじまる』では思考を「思う」と「考える」に切り分けている。
これは著者の倉下さんが「考えた」結果だと思うし、切り分けようと試行錯誤すること自体が「考える」ことなのでもあると思う。
他にも「書くことは考えること」ともよく言われるが、書くこと自体が頭の中から言葉として切り出している。
最近読んだ本に『アトミック・シンキング』がある。
本書ではアトミックなノートを書くことを推奨している。アトミックとはここでは「論理的にこれ以上分割できない一番小さな状態にすること」である。
つまりアトミックに書くということは、ノートに書くという切り分け方に工夫を加えるということでもある。
考える行為についてひと工夫するということだ。
考えるという行為は意識と無意識の2つの領域にまたがっていると思う。
今書いているこの文章も意識的に考えているところもあるし、手が向くままに書いている無意識の面がある。
だからこそ、意識的にできる工夫は思考法でもあり、学習法ともなる。
どのように切り分けるか、切り分けようと意識するか、それは考えるという行為の重要な要素なのだ。
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自分の執筆作業を発見と創造に切り分けたのも「考えた」結果だと思う