振り返らないと影は見えないこと、あるいは独学の楽しさについて。
とある日のバスにて、こちらのポッドキャストを聞きました
#152 コミュニケーションの対象が「ヒト」ではなく「モノ」 - FREE AGENDA by hikaru & yamotty
その中で「人とは対話しないけど、物(この話の中だと絵画)とは対話している。結局人は何かと対話してる。それが人であろうとモノであろうと対話の総量は変わらないのでは。そして、その何かとの対話によって自分自身を形作っているのでは」といった話がありました。
ふむふむと聞いているうちに、以前聞きかじったプラトンの「洞窟の比喩」を思い出します。
Wikipediaを読んでもなかなか難しいのですが、人は洞窟に移った影を実体としてとらえている考え方と理解しました。
そこで考えます。
「対話によって形成される自分」
「洞窟に移った影」
何か似ている気がする。
バスが信号で止まります。ふと、こう考えてみました。
私たちは何かから反射されて壁にできた自身の影、それを使ってしか自分自身理解できないのではないか。
そして、影を作るためには人、モノとの「対話」が必要なのではないか。
そう考えました。
ここでとてもしっくり来たんですね。
「あぁ。だから振り返るんだ」
形はどうあれ、わたしたちは「振り返る」ことで自分を理解するのだろうということです。
対向車が通り過ぎるのが車窓から見えます。
対話しているとき、当然私たちの目は対話する方に目を向けています。となると、対話によって反射され、私たちの影ができるとき、その影は当たり前ですが、背後にできるのです。
背後にあるものは「振り返って」初めてみることができるのです。
私たちはその影を使って自分自身を理解している、もしくは理解した「つもり」になっているのです。
バスが曲がって、体が少し流されます。
そこで日記について考えます。わたしは日記を毎日読み返しています。
これは振り返りの一種でもあり、自分自身への理解に繋がっている気がしています。しかし、自分自身を完全に理解することはできません。
影を見ているわけですからね。
ですが、どんな対象によって自分自身の影ができているか、それを理解することはとても大事だと思います。
たとえば、他人を貶めることによって自分を上に持ってくること、これは他人を使って下から光を当て、自分の影を大きくしているともいえるでしょう。
それは他人を利用したやりくちなのではないかと思うのです。
他人と対等に接することができれば、影は等身大になるのではないでしょうか。
その点日記は自分自身のことですから、自然と等身大の影ができるのではなかろうか。
「ほうほう、おもしろいぞ」とひとりでわくわくしています。
(はたから見たら少し怪しいですね)
ここでバスは速度を落とし、目的地に到着しました。
空は青く、晴れやかでした。
独学をしているとたまにやってくる、こんな瞬間が好きです。
ドクガククエスチョン
Q. あなたが独学をしていて楽しい瞬間、好きな瞬間はいつですか?
10秒でもいいので、考えてみてくださいね。メールに返信いただくか、Twitterなどに記事と一緒にtweetしていただけたら嬉しいです。
ゆうびんやでした。