考えることは問いを大切にすることと言えます。
たとえば問いかけによって、自分の思考を動き出すのを感じたことはあるのではないでしょうか?
と、いまの問いかけでも少し思考が動き出したはずです。
問いかけられることは、ボールをこちらに向かって投げられることといえるかもしれません。
ボールを投げられれば、受け止める、よける、打ち返すといろいろな選択肢がでてきますが、それはボールが投げられなければ必要のなかった行動です。
問いかけにはすこし強制的な部分がありますし、その強制的な部分が攻撃的と受け取られることもあります。(たとえば面接などの問いかけは攻撃力が高い気がします)
だからこそどんな問いを使って考えるかが大切になってきます。
たとえば「私淑」という独学の技法があります。
私淑は「実際に会うことができない人を師と仰ぐこと」です。『独学大全』からやり方を引用すると以下のようになります
① 師と仰ぎたい人を選ぶ
② ①で選んだ人物について情報を集める
③ 折に触れて私淑した師に問いかける
『独学大全』178~181p
師とあおぐほどですから、見習いたい行動、思考があるはずです。
その行動や思考を身につけるための出発点となるのが「師匠ならどうするだろうか?」という問いです。
その問いを自分なりに身につけ、考えていくための技法が私淑と言えます。
また、無意識に問いを使っていることもあるでしょう。
たとえば「これは普通だろうか?」といった問いは知らず知らずのうちに、私たちの中に身についています。
これは社会生活を営む上での基盤ともなれば、呪縛ともなりうるものです。
こうした無意識のうちに使っている問いに気づくためには、別の問いをぶつけることが一つの方法です。
たとえば「これは普通だろうか?」という問いを「そもそも普通ってなんだろうか?」という問いで浮かび上がらせるのです。
学ぶ事に考えることは不可欠です。
なんらかの「問い」をもって、私たちは学び、そして生きています。
だからこそ自分がどんな「問い」を持っているのかを少し考えてみるのは、きっと大切になるはずです。
さて、ここからは有料の方向けに「問いはどうやって身につけられているのか」について考えてみたいと思います。
問いを知っていることと、問いを身につけていること、ここには大きな差があります。