なぜ独学同好会をやっているのか。
今考えているのは止まり木を作るためということである。それはこれまで細々と本を書き続けてきたということとも関連がある。
現在まで6作ほどKindleで本を書いてきたけれども、その推進力となったのは子供ができたことだ。
たぶん子供が生まれていなければ、ブログは書いても本を書くことはなかった気がする。
そしてなぜ本という形式にしているのかといえば、ブログではなく、本という質量がなければ、届けられないものがあるだろうと思ったからだ(電子書籍なので質量はないが)。
そして、本を書いたことがもしかしたらバタフライエフェクト的な何かによって、子供が生きていく将来にとって良い影響が生まれるかもしれないと思っているところもある。
もしかしたら悪い影響ということもありうるけれど、そこは目をつぶる。未来の可能性は無限大なのだ。
そして、独学同好会である。
独学同好会もコミュニティというものが必要なのではないかと感じていたのがきっかけだ。
独学同好会は正直に言えば収益なんてあってないようなものである(サポートくださっている方には最大限の感謝を。本当にありがとうございます)
ただ独学を育む場があるということは将来にもしかしたらバタフライエフェクト的に効果があるかもしれないと思っているところはある。
学びとは変化であり、場は俯瞰を促すからだ。
さて、「浮世離れ」という言葉がある。
「学者は浮世離れしている」といったような使われ方をするが、浮世離れしているからこそ見えるものもあると思う。
「独学同好会」というネーミングも響き自体にどこか浮世離れというか、少し硬いイメージがある。
自分のネーミングセンスに落胆するが、でも最近はこれでもいいのではないかという気もしている。
現実を俯瞰してみるには浮世離れが必要なのだ。でも浮くためには止まり木が必要だ。人間は鳥のように空を飛び続けることは難しい。
止まり木のような場が必要なのだ。
現実と地続きで、でも少し離れた場所。
それは例えばスポーツのようにルールが設定されている場所かもしれないし、ディズニーランドのように区切られている異質な場所かもしれない。
現実と地続きだけどちょっと違う場所。
ディズニーランドでならミッキーの耳がつけられても、家の近所に帰ってくれば現実が待っている。耳をつけていられなくなる。
でも、夢の国から帰ってきたとき、今まで見えていなかった現実の一面も観るはずだ。
疲れて帰ってきたあとのお茶漬けはおいしいとか、やっぱり家はほっとするなぁとか、そんなちょっとしたことだ。
離れた場所は現実の違った一面を見せてくれる。
そんな浮世離れしている場の一つとして、独学同好会もあればいいのではないかと思う。
ディズニーランドが展望台ぐらい高く遠く離れているとしたら、独学同好会は階段を5段上がったぐらいかもしれないけれど、それでも俯瞰はできるはずだ。
そこからどれぐらい浮世離れるかは、それこそ何をどれだけ学ぶかでも変わってくるだろう。
学びは変化することだからだ。
現実に帰ってきたときに気づくことだって、変化の一つ、つまり学びだ。
世界は学びであふれている。
これはちょっと言ってみたかっただけである。
というわけで、これからも独学同好会をよろしくお願いします。
もしよければ、本格的に独学同好会に参加してみることも考えてみてくださいね。
ではでは。