送り付け商法で送られてきたものは保存する必要がなくなったご存じでしょうか。
勝手に送り付けてきたものを7月6日からから保存しておく必要はなくなりました。
一方的に送り付けられた商品をすぐに捨てられるように 法改正で「14日間保管」ルールが廃止、7月6日から(ねとらぼ) \- Yahoo!ニュース
勝手に送り付けられてきたものにさえ、わたしたちはどこかに後ろめたい、落ち着かない気分にさせられます。こうした詐欺はそんな気持ちを利用するものです。
私たちは何かをもらったら何かを返さないといけない、そんな「交換の原理」の中に生きています。
だからこそ、もし自分自身に与えられるものがなかったら、何かをもらうことができなません。
そう考えてしまうと誰かに頼ることも難しくなります。親切をありがた迷惑と感じることもあるでしょう。
おせっかいと親切の境目はどこにあるのでしょうか。
自己責任という言葉があります。
自己責任という言葉はあまり好きではありません。わたしたちは自分一人で生きているわけではありません。社会や環境、文化、人間関係、様々なものが自分を形作っています。
自分自身が何か過ちを犯してしまったとしても、それは自分だけのせいとはいいきれないと思います。もちろん、自分自身の責任がないとも言えません。
自己責任という言葉は環境の問題をまるっと見ないで単純化する言葉です。
環境の違いについて考え、思いをはせるためには、本を読んだり、自分とは全く違う人について知るといったことが大切だと思います。
一種の独学ですね。もちろん独学以外でも学ぶことはできますが。
自己責任はおせっかいも親切も無用にします。
逆に言えば、おせっかいも親切も自分がそれにふさわしかったからという考えにつながるかもしれません。
人に何かを上げるときにプレゼントだと伝えることは、「お返ししなければ」という意識が芽生えます。
誰かに本当に「贈り物」をするのであれば、その時に気づかれてはいけません。「鶴の恩返し」のように。
気づかれなければ、お返しされない、つまり「交換」はできず、「贈り物」になります。
「あの時の言葉、行動は実は贈り物だったんだ」と時間差で受け取った本人が気づく必要があります。
「鶴の恩返し」は猟師に恩返しを気づかれたからこそ、いなくなってしまうのです。
逆に言えば贈り物をするためには受け取った本人が気づかなくても構わないと考えなければできません。
贈り物をするためには気づかなくても構わないという勇気と諦めの両方が必要なのかもしれません。
本を書く行為にもどこか通じる気がします。
巨人の肩に乗ることは贈り物に気づくことです。
贈り物をされたことがあると気づくとき、人は誰かに贈り物をしたくなります。
私たちはいつも巨人の肩に載っているはずなのですが、それをついつい忘れがちです。
何でこんなことを書いているのかというと、『世界は贈与でできている』を今読んでいて、とてもおもしろいからです。
日記と贈与の関係についても少し考えてみたので、よろしければお聴きください。
「贈与」についてもっともっと考えたいですね。ゆうびんやでした。