水を差すという言葉は、ネガティブな印象があります。
うまくいっていることを邪魔する、あったまっている空気を冷ます、あるいは、空気を読まないといったようなニュアンスもあるでしょうか。
しかし、考えるきっかけを作るという意味で「水」はとても大切といえます。
たとえば、新入社員がぽろっといった一言が企画をガラッと変えたり、空気を読まないあの人の発言がプロジェクトの突破口になったり。
とはいえ、水がどんな時でもいいかというと、そういうわけでもありません。会議で水を差し続けられれば結論も出なくなるでしょう。
ではどんな時に水が必要になるいかといえば、考えが凝り固まっているときです
柔軟に考えているつもりでも、視野が狭くなっていることはよくあります。
それは粘土に例えてもいいかもしれません。
固まってしまった粘土を柔らかくするには水が必要です。
水を差すことで形を作り替えることができます。
しかし、あまりに水が多すぎると形が崩れてしまいます。悪くすれば、ぐちゃぐちゃになってしまい、もう一度形を作ることもできなくなってしまうでしょう。
逆に水を差しても放っておけば、その水は乾いてしまいます。
結局はバランスになるのだと思います。
では、その水はどんなふうにもたらされるかといえば、ひとつは問いかけでしょう。
「本当にそれでいいの?」といった言葉は結論が出そうになっている会議の終盤に聴くのは心がざわつくものですが、そうした問いかけが必要になることもあるのです。
正解、まとも、常識というものにはまり込むと、水はうざったいものになってしまいます。
変化、不安定、そうしたものをもたらす問いは、うっとうしく感じるのです。
しかし、そうした問いかけが学びには必要になります。
学びとは、自分が部分的にでも変わることです。
つまり、現状に対して「水を差される」ことが学ぶことになります。
学ぶためには水を受け入れる余裕や慣れが必要になってくるのでしょう。
年齢を重ねるにつれ、水を差されることが少なくなってきている気がします。それがさらに水を受け入れにくくさせていそうです。
だからこそ、草花に水をやるように、自分にも水を定期的に上げられるようにしたいとおもっています。
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