こんにちは、ゆうびんやです。
最近『無知の科学』を読み始めました。とてもおもしろいです。
その中で、わたしたちは自分の頭の中の情報と外にある情報の境界はシームレスであり、外にあるものも自分の中にあるように扱うとありました。
どのような情報が入手可能か把握するのは、至難の業だ。自分の頭のなかにあるものと、外にあるものの境界はシームレスでなければならない。私たちの知性は必然的に、自らの脳に入っている情報と、外部環境に存在する情報とを連続体として扱うような設計になっている。
だからこそ、私たちは自分が実際に持っている知識よりも多くのことを知っていると錯覚してしまうわけですが、それは本筋ではないので置いておきます。
そして以前映画『メメント』と絡めて、こんな記事を書きました。
日記は私たちの頭の中の感情や出来事を外部に蓄積してくれます。それは自分自身に対する安心感になっていると考えました。
たとえ、私たちが頭の中の記憶を忘れ去ったとしても、日記に残っていれば、それはある意味自分の頭の中にあると言っても過言ではないのかもしれません(過言か?)。
そして、無知の科学を読んで、上記のようなことを考えていた直後に小説『1984年』を読んでいて、こんな文章が飛び込んで決ました。
重要なのは、古道具屋の上のその部屋が存在しているという事実。それが無傷でそこにあるのだと知っていることは、その部屋のなかにいることとほとんど同義なのだ。その部屋は一つの世界であり、絶滅種の動物が歩いていられる過去のポケットだった。
まるでタイミングを合わせたようにすっと目に入ってきました。
主人公の隠れ家的な部屋についての記述です。「そこにあると知っていることは、その部屋の中にいることとほとんど同義」なのです。
日記を書く、そしてそこに私たちの感情や出来事がつづられていると知っていること。それはとても安心できることなのかもしれません(なにしろシームレスです)。
ただ問題はそこに、日記にあるかどうかを「知っている」かです。
大掃除の時に記憶にない書類が引き出しの奥から発掘されることがありますが、この場合はシームレスにつながっているとは言い難いでしょう。
だからこそ、日記もただ書いておいておくのではなく、折に触れて読み返すのがいいと思います。
そうした意味では実物として残る紙の日記帳も悪くはないと思うのです。
手に取れる重みというものは、そこに日記帳があることを実感させてくれますからね。
こんなことをこの年末に考えました。
それでは、また。
ゆうびんや